創新ネットシティ・100年企業探訪会として、
川崎は鶴見にある、総持寺にて坐禅会を実施いたしました。
總持寺についてご紹介。
曹洞宗は、中国より坐禅を中心とする仏法を日本にもたらした道元禅師と、その教えを全国に広めた四代目の瑩山禅師を両祖と、それぞれの開かれた永平寺と總持寺が両大本山です。
能登にあった總持寺は、明治三十一(1898)年に大火災に遭い、多くの伽藍を失いました。
その後、貫首になられた石川素童禅師は、将来の展望と現代布教への使命から、大英断をもって本山は横浜鶴見の現在地に移されました。
能登から鶴見に本山の場所は移りましたが、たくさんの修行僧が七百年にわたって坐禅修行をして歴史を積み重ねてきました。
御移転から110年が経ち、鶴見ヶ丘にある總持寺は十五万坪の緑のオアシスとして人々に親しまれています。
建物についてご紹介。
『百間廊下(ひゃっけんろうか)』と呼ばれる長廊下。
諸堂をつないでいて長さは164メートル。1日二回、修行僧による雑巾がけが行われているとのことでとてもピカピカでした。
(代表、塾長も雑巾がけのご経験があるようですね。)
『香積台(こうしゃくだい)』という総檜、切妻造りの建物。
玄関では大きな「しゃもじ」と「すりこぎ」が出迎え、木彫では日本最大といわれる大黒尊天が祀られています。
『大僧堂』と呼ばれる修行が展開される根本修行道場。
最大で一度に百十六名が坐禅することができるとても大きな修行道場です。堂内中央には僧形文殊菩薩像を安置し、修行僧がこの像を囲んで、坐禅、食事、睡眠を毎日規則正しく行なっているとのこと。
今回私たちはこちらの大僧堂にて坐禅をさせていただきました。
『紫雲薹(しうんたい)』と呼ばれる代書院。
大正四年の完成で、禅師さまが全国の寺院と親しく相見する場所だそう。
書院の襖や板戸には、佐久間鉄園、松林桂月、池上秀畝、狩野探令など、近代日本画の数々の水墨画や彩色画が残されているとのこと。
ゲッペルト昭元和尚による法話
總持寺や曹洞宗の歴史、禅についての基礎知識をお話いただきました。
特に印象深かったのは、「禅とは自分で自分の悩み苦しみを克服するもの」というお言葉です。
他力(お守りや祈祷)ではなく自力で観自在(自分の存在を観る)するのが禅。仏様を習うとは自分を見つめ直す事。
たまには外だけでなく自分の内をみつめてみようという、和尚のお言葉に心打たれた参加者も多かったようです。
また、今回の法話と坐禅の指導をしていただいたゲッペルト和尚の個人的な仏門に入るまでのお話も大変興味深かったのでご紹介します。
和尚は旧東ドイツ(ドイツ民主共和国)出身の41才。
当時の東ドイツはロシア(旧ソ連)の影響が強く、宗教も弾圧されていた。
6才の時東西ドイツが統一し、母親が「これから新しい人生が始まる」と言った事を覚えているそう。
日本に興味があり、18才の時に東村山でホームステイの経験がある。
もっと深く日本を理解するには本格的に日本語を勉強しなければと思い、ライプチヒ大学で日本語と哲学を学ぶ。
この時、日本人の先生に仏教についても学んだ。
大本山總持寺の夏季参禅会にも参加。仏教に心酔し、仏門に入る事を大学に相談するも「もう少し歳をとってからでいいのでは…」と反対される。それでもH23年1月9日に出家。
ゲッペルト オリバー改めゲッペルト昭元に。
能登の總持寺祖院で12年務めた後、去年7月から大本山總持寺へ。石川県羽咋市の観音寺の住職も務める。
さて、法話の最後に紹介していただいた禅語をひとつ。
「日日是好日」 (毎日が平安で無事にありますように)
人生とはなかなか願いの通りにいかないもの。晴れの日も雨の日もあるのが常。
今年の元日の大震災もそう。ご自分は元日ここ大本山總持寺で務めを果たしていたが妻子は羽咋の観音寺で留守番。
奥能登の寺院群に比べれば被害は軽微であったものの、断水するなど大変な状況であったそうです。
この様に人生明日何が起こるかわからないので、その日一日、今日一日を大切に過ごすようにしたいものです。
最後に
「背筋を真っ直ぐに」
「心を真っ直ぐに」
どうぞ良いお年をお迎えください。
合掌
【レポート記載者 】
創新塾97期生・令和6年度幹事
株式会社ライフコーポレーション 代表取締役 亀井桂